ネネコ・クローネルの冒険記
〜緑光輝の迷い子〜
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第三章(2)
リル・ディスの朝は早い。
南方全体が海に面したこの町は、大規模な漁港が構えられており
近隣の島国、そして遠方からの交易船を合わせて
多くの人々が行き来する、ベイジラ領の玄関口ともなっている。
南西部から南東部までを横断する港口を覆うように、
新鮮な海産物をそのままの姿で卸すマーケットが広がり
まだ陽も東の空から姿を現した頃だというのに、活気ある声が方々から聞こえてくる。
海鳥が鳴き、物陰では黒猫がおこぼれに預かっている。
青く広がる海原からおしよせる潮は、リル・ディスの香りと同義だ。
無論、訪れるのは商船だけには留まらず、
優美な装飾が施された客船、そして旅の流れ者が利用しているのであろうか、
質素な外観の小船も、首を並べて港に停泊し、そしてまた離れていく。
港、海産市から町の中心部、果ては外れまで緩々と続くストリートは
網目を描く様にリル・ディス全体に走り、潮の香りから遠ざかるに連れて
家屋を構える民達の、生活観溢れる町並みが待ち構えているのである。
ストリートを北に足を進めていけば、商店市が多く見受けられる。
港から此処まで離れてしまうと、すでに外来を相手にした商いではなく
リル・ディスの時の流れと共に暮らす、町民同士のための交流場所だと言えるであろう。
ひとつふたつと、順々に軒を連ねていく店構えを指折り、数えていくうちに
甘い香りを周囲に振りまく、青果の売買を生業にした小さな店舗に辿り着いた。
ネネコ・クローネルは、この果物屋の二階の一室を間借りしている。
「うん……む、んん……」
切り取られた四角い窓からは、刺激の強い陽の光が差し込んでくる。
風に押されるカーテンはその役目を果たす事も無く、隅に追いやられている。
「また、寝坊?……いつも、こうなんだから……!」
二度、三度と寝返りを繰り返すとネネコはようやく身体を起こす決心を固めた。
骨組みの露出した置時計を見ると、寝坊というほどに遅い時間では無かった。
しかし、彼女には約束があったのだ。
鏡の前に座ると、やはり寝癖が酷い。
毎朝の事であるとはいえ、だからこそ、ややも気持ちを落とすのだ。
手櫛で直しても、あまり意味は無い。
時間が過ぎれば一人手に落ち着いてくれるであろう、
ネネコは顔を洗い、身形を整え、膝掛けを心ばかりに隅に寄せると階下に下りていく。
「おばちゃん、おはよう!」
ネネコが声をかけると、店先で開店の準備を始めていた人影がこちらに顔を出す。
全身を体毛に覆われた亜人だ。ネネコの様な、純血種の人間ではない。
太い尾部と、目の周りに縁取られた黒斑を見るに、どこかしらタヌキの姿を連想させる。
「おや、おはようネネコちゃん。まだ眠っていても良かったのに」
「だけどわたし、モドやマーコちゃん達と約束があるから」
大きく前へ突き出た腹にエプロンを巻き、身体を揺らしながら近づいてくる彼女は
愛嬌と共に、暖かな印象をネネコに抱かせていた。
相も変わらぬ、赤髪の乱れ様に少し吹き出すと、ブラシを取り出して直してくれる。
「本当だったら……今朝はモドのお父さん達と一緒に海に出るはずだったんだ」
「そうかい、それじゃあ……この時間だと、寝坊になっちまったねえ」
「うん、そうなの。何の為に、早くベッドに入ったのか解らないよ」
ネネコは肩をすくめて苦笑いを浮かべるが、落胆した様子は無さそうだ。
いたずらが見つかってしまった子供の様に、口の端を緩ませている。
旅の少女を快く招いた彼女にとって、ネネコはやはり実の娘ではないのだが
それは些細な事だと忘れさせてくれる、奔放な愛らしさを好いていた。
「いまからでも、手伝える事はあるかも。港には顔を出しておこうかな」
「だったら、朝食は軽目にしておこうか……パイの残りだったら、直ぐに出せるけど?」
「ありがとう!アップルパイ?……やったあ!」
「はい、可愛くなったよ。じゃあ少しだけ、待っていなさいな」
「うん!」
ブラシで髪を梳かし終わると、ミルクとパイを手早く温め直し始めた。
ネネコはそうした様子を見守りながら、容易く整えられた自分の髪に指を通してみる。
何をどうしても、跳ね上がるだけの髪を何故整えられるのかが不思議であった。
居間から吹き抜けになっている店先の様子を、
腰を大きく曲げて確かめると、まだ人通りが見られない事に気がつく。
「エルマーは、今朝もおじちゃんのお手伝いに?」
「ああ、そうそう。
ネネコちゃんが起きるまで待てって言ったんだけど、ウチの人が聞かなくて」
「エルマーにも、置いていかれちゃったんだ……」
座ると少し、軋む音のする椅子に腰掛けてテーブルに顔を乗せると、
ネネコは脱力して頬を膨らませ、顎を揺らしてみせた。
その行動に意味は無いのだが、どうにも起きてから上手くいかない事ばかりだ。
「お待たせ、ネネコちゃん。ほら、行儀悪い事、しないの」
「う、うん……」
ミルクもパイも、白い湯気をゆらゆらと立ててネネコを招き入れている。
間が抜けているのは、やはり自分だけだとネネコは自分を窘めた。
「それじゃあ、おばちゃんはお店の準備があるから。鍋にはまだ、ミルクがあるからね」
「うん。いただきます!」
店に戻ると、やはり手際良く商品棚を整頓していく。
そうした様子を遠目に眺めながら、口の中にパイとミルクを頬張っていく。
口を動かしながらパイを見ていると、段々とまどろんできてしまう。
リンゴの甘味が口の中に広がってくるのを感じると、
ネネコはようやく約束の件を思い出して、慌ててミルクを流し込んだ。
リュックサックは二階の借り部屋に置いてあるが、
特別手荷物を持って出掛ける必要も無いだろう。
もう一度、鍋のミルクを一杯だけグラスに注いで飲み干すと、食器を流しで片付ける。
「おばちゃん、それじゃあわたし……港に行ってくるね!」
「ああ、気をつけてね。ネネコちゃんなら、心配要らないとは思うけど」
「はーい!」
手を大きく振りながら、少女は道の向こうへと駆け出していく。
直に、主人達も果物を大量に引きながら戻ってくる頃だろう。
赤く光沢を見せるリンゴを軽く磨くと、彼女は丁寧に籠の中に納めていった。
港まではしばらく距離があるが、ストリートを真っ直ぐに進めば
自然と港口に辿り着く事は出来るであろう。
モドの父親が利用している専用口は別に探さなければならないが、それは後回しだ。
腕を大きく振って走り抜けていくと、
開店の準備を始めている店舗が絶え間なく続いていく様子だ。
そうした中でも、店主や町民はネネコの姿に気がつくと、声をかけてくれる。
「おはよう、ネネコ!」
「そんなに急いで、何処に行くんだい?」
「ブドウを三房ほど、取り置きしておいて欲しいんだけどねえ」
リル・ディスでは町の活気に説得力を持たせるように、
陽気かつ気さくな町民達が顔を揃えて暮らしているが、
旅の途中で訪れたネネコ・クローネルに対してもやはり、親密に関わろうとしてきた。
しかし、彼等がネネコに対してフランクに接するのは、それだけが理由ではないだろう。
声をかけられるごとに立ち止まり、駆け寄っては一言二言と言葉を交わし、
屈託の無い笑顔を返す少女の姿が、人々に好感を持たせているのであろう。
実際、いまネネコは出遅れた約束を果たすために急いでるはずなのだが
そうした様子を僅かにでも見せる事も無く、ころころと表情を変えながら笑っている。
同じ様なやりとりは港に辿り着くまでに延々と続いていったために
果物屋を出てから結構な時間が経過していたが、ネネコは気に留める様子も無いようだ。
むしろ、眼前に蒼いラインが広がり、潮の香りに導かれて胸は躍る一方だ。
海産物の、いくらか生臭い匂いも肌に染みつく様になってきた。
早朝に床面に広げられた水溜りも、陽の強さに飛ばされて縁面を滲ませている。
「モドやマーコちゃんは……みんなの船はどこかなあ」
ネネコは息を切らせる様子も無く、足を伸ばして掌を額に乗せ、
大きく周囲を見回してみるが、人通りが多過ぎて見分けがつかない。
町の南西には空を目指して大きく聳える灯台が構えていたが、
塔の頂上から眺めれば直ぐに見つかるかもしれない、と考えながらも
其処まで辿り着く間に、さらに時間がかかってしまうなと忘れる事にする。
ひとまず海産市を抜けて、もう少し港口まで足を伸ばす必要がありそうだ。
魚や貝、得体の知れない軟体動物が並べられた商品棚に気を引かれながら
人ゴミを左に、右に掻き分けて進むと何処からか大きな物音が聞こえてきた。
女性の悲鳴も入り混じっているようだ。
何事であろうか。
「なんだ!?騒ぎか!ケンカか!」
「行ってみようぜ!」
ネネコの体躯の倍はあろうかという男達が、
まるで財宝の山を見つけたかのように瞳を大きく見開いて声を挙げると
腕と足を豪快に打ち鳴らしながら、騒ぎの起こった場所へと群がっていく。
リル・ディスの人間は、ただ陽気なだけではなく野次馬も好きなのだ。
ネネコまで、そうした野次馬根性を持ち合わせているわけではないのだが
鳴り止まない物音と、悲鳴が絶えず聞こえてくる様子から
只事ではないな、と人海に飲まれながらも様子を確かめてみる事にした。
「なに……なんだろう?」
やがて、騒ぎの元を大きく取り囲むように雑踏が溢れている場所に辿り着く。
あっという間に集まってきたのであろう、小柄大柄、耳つき尻尾つき、
人種を問わず多くの人々が無責任に肩を寄せ合いながら事態を見守っている。
その中心にいるのは、どうやら賊の集団であるようだ。
薄汚れた衣装に短銃や刃物を携帯し、時折野次馬を威嚇しながら声を挙げる。
「ギャハ!ギャハ!お騒がせしてスミマセンねえ、皆々様よ」
「オレ達ァ、見ての通りのしがない山賊でさあ!」
「命が惜しければ、メシ、女、金品、その他何でも、出して貰おうか!」
話している内容は間抜けではあるが、賊衆が声を張り上げ、
手にした短銃を発砲する度に悲鳴と罵倒が広がり、
その場は独特の緊張感に包まれ、渦中の人々は興奮状態に陥っていた。
「ちょっと、通して……あの人達、何て言ってた?山賊って……さんぞく?」
身体の小さいネネコには、群集の前に進むだけでも一苦労だ。
ようやく騒ぎの主達の姿と声を確かめると、眉を顰めて首を傾げた。