ネネコ・クローネルの冒険記
〜緑光輝の迷い子〜

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第五章(12)


虚空。

何もない世界。
何も見えず、何も聞こえず、何も感じず、何も触れる事のない世界。

名前もない。
彩りもない。
境界線もない。

彼は虚空に生きているはずであった。

しかし、目の前に広がっているのは白い世界だ。
彼の名前は、バセス・チルノダ。
視界が動かないため五体が存在するかは解らないが、物を見通す目がある事は確かだ。

鼻を僅かに動かせば、獣然とした自身の体臭が感じられる。
腕こそ動かないが、指先を動かせば腹の柔らかい感触と、体毛に触れる事が出来た。

彼が生きる世界には、何も存在しないわけではなかった。
しかし、それは理屈に過ぎないのかもしれない。
彼が欲するのは、過去に失ってしまった存在である。

歴史に仮定は生まれない。
時間を逆行する事は出来ない。
壊れた物を元通りに戻す事は出来ない。

時ばかりが無常に過ぎ去り、望まずとも彼は成長し、成人し、現在まで生きてきた。
色褪せた記憶に束縛され、呪縛を作り出し、自覚していても逃れる事が出来なかった。


この白い世界にあって、無気力に苛まれると共に自身は限りなく自由でもあると感じる。
永い間彼に根づいていた憎悪の心が消え失せてしまった。
憎悪は彼の枷でもあり、そして同時にすべてに対する原動力でもあったのだ。

自身を、他者を、環境を、そして世界を憎む事で自分自身に意味と意義を見出していた。
彼が彼であるために、理由と理屈を見出さなければ生きられなかった。

だが、いまの彼にはこの白い世界にある理由も理屈もない。
にも関わらず、彼は確かにいま、この白い世界に存在している。

理想と現実。
絶対的意思と絶対的矛盾。

重ねても、果てなく続く思考の往路。
湧き出る事のない、無力な感情。
白い世界にあっては、彼が抱き続け、成長を続けた価値観も役には立たなかった。

だからこそ、何もないのだと感じる。
虚空であるのだ、と。


では一体、いま目の前にいる白い人影は何者であろうか。
白い世界にあって、白い人影を見ている。
この絶対的矛盾は、人影の輪郭を彩る境界線が覆し、現実として存在させていた。

人影の瞳は緑色の輝きを放っている。
人影である、という事はその正体は人間である。

常識という名の測定器で白い人影を意識の中に封じ込めていくと、
彼の、いや彼女を人間たらしめる要素と価値観が理屈として生まれていく。
緑色の瞳の中心に鼻があり、その下には口があり、輪郭の周囲には耳がある。

髪がないわけではない。
豊かに蓄えている。

身体の輪郭は……いや、輪郭しかない。
他に分別すべきパーツが見当たらない。
ともかく、顔があり、手足があり、胴体がある。人間である。

その背丈、風貌からは記憶の一端を掻い摘む事が出来た。
彼は、彼女の名前を知っていると感じた。


「お前は……ネネコ・クローネル?」
『違うわ』

「では、誰だ」
『私は、世界に異を唱える者』
「異を……?」

彼は彼女の言葉に強く反応する。
「世界に異を唱える者」。
それは、彼自身がそうありたいと願い続けた理想の未来像であった。

世界を変える。
世界を正す。
世界の誤りを矯正し、桃源郷を築く事。

その特別な存在には、いよいよもって現在においても成る事が出来なかった。

『貴方の名前は?』
「俺は……バセス・チルノダ」
『本当の名前は?』
「……バセス・チルノダ」

妙な追及を受ける。
しかし、彼にはその追求の意味が解っていた。
かといって、認めるわけにも正すわけにもいかなかった。

いまの自分自身を失う事に成りかねなかった。

『偽りの上にはひとつの真実も生まれないわ』
「その言葉……聞き覚えがある」
『貴方の心深くに根づいて消えなかったのね。それだけ意味のある言葉だったから』
「真実など……必要ない」

『いま、貴方の目の前には青空が広がっている』
「……?」

何を言っているのか。
目の前には何もない。ただ、白い世界が広がっているだけだ。

「何も……ない。青など、何処にも存在しない」
『想像してみて。私の言葉を、受け入れてみて』
「何も……青空など……青空は……」

彼はイメージを浮かべる。
目の前に、彼女の背後に浮かぶ青い空。
この白い世界に異を唱える、青空が広がっている世界を想像してみる。

「あ……空が……青空が……」
『その中に、白い雲は浮んでいるかしら』
「浮んでいない……いや、ある。青空に、白い雲が浮んでいる」

『空には小鳥が飛んでいるかしら』
「飛んでいる……小鳥だ。いや、あれは……鷹だ」
『空の下には、何があるの』
「地面だ……俺はいま、地面の上に寝ているのか。青臭い……これは、雑草か?」

世界が広がっていく。
彼がイメージを浮かべるごとに、彼を取り巻く環境が生まれていく。

『貴方の身体は何色なのかしら』
「黒……いや、灰褐色の、体毛が……身体中に生えている」
『何故、貴方の身体には体毛が生えているの』
「俺は……アスケルの、混血の……亜人種だからだ」

『何故、亜人種の貴方が軍人として生きているの』
「帝国軍において、亜人の存在は稀だからだ」
『何故、稀な存在だと解っていて軍人に志願したの』
「そうすれば、自身を嬲れると考えた。俺は常に虐げられていると感じる事が……」

『辛くないの』
「辛いよ」
『何故、辛いのに続けているの』
「辛いと感じる事で、ずっと忘れずにいられると考えたから……マァマを……」

『痛みを忘れたくなかったのね』
「俺は……マァマを……忘れたくなかった。ずっと一緒にいたかった」

彼の瞳から涙が溢れてくる。
忘れる事などなかった。大切なものを失った時の痛みと、悲しみを。

『貴方は孤独ではないのよ』
「孤独だ。何もない……俺は何も持っていない。欲しい物は何処にもない」
『貴方の胸の中で、ずっと忘れずに強く抱き続けているものは何?』
「何……とは……思い出……過去を、忘れたくなかったから……」

『貴方は孤独ではないわ』
「俺は……生きていると……俺が生きている世界があると……?」

胸の中を、記憶の中を辿っていくと幾つもの風景と何人もの人々が思い出されていく。
すべては確かに存在していた。
すべての中に、確かに自身が存在していた。

彼が生きた世界と、彼が生きている世界が存在しているのである。

『貴方は、貴方自身を受け入れる事で孤独を感じなくて済む』
「俺、自身を……?」
『世界は常に、同じ姿で貴方を包み込んでいるのよ。それをどう感じるのかは貴方次第』
「俺次第……俺は、俺は……」

『貴方の本当の名前は?』
「俺の名前は、ピトロ・アスク・ミジュア」
『バセス・チルノダは?』
「俺が……つけた名前だ……誰にも悟られないために……本心を隠すために……」

『ピトロは貴方の名前。アスクは人種の名前。ミジュアは家族の名前』
「そうだ……嫌悪し、憎悪し……捨ててしまった名前……」
『それでも貴方の心は、ずっと思い出の中で生きていたのよ』
「ピトロは……マァマがつけてくれた名前……」


彼女の輪郭が次第にぼやけ、彩りが蘇った世界の中で色褪せ、消滅していく。
イメージを取り戻した彼の心にも、その変化は見て取る事が出来た。

「待て……待ってくれ!行かないでくれ……俺を独りにしないでくれ」
『行かなくちゃ……エルマーが呼んでる。これ以上ひとつになるとネネコに戻れなくなる』

「エルマー……ネネコ・クローネルに……」
『世界は、貴方自身を受け入れる事で広がっていくのよ。もう、孤独じゃないわ』
「俺を……俺を殺さないのか。俺は、お前達の生命を奪おうとしたんだぞ」
『ネネコはそんな事を望んではいないわ』

「え……?」
『ネネコは、貴方を助けようとしていたのよ』
「お、俺を……どうして……」

彼女の身体が景色の中に溶け込み、その存在が希薄に変わっていく。
彼のイメージが広がるごとに、世界の姿は豊かさを増していくのにも関わらずに、だ。
彼女の存在だけが、消えてしまうのだ。

『ピトロさん。生きていてね』

最後の言葉を残して「世界に異を唱える者」と名乗る少女は消えた。
ただ一言の言葉に、何故こうも温かさを感じるのか。

「う、うう……おおお……」

世界の中心で、ピトロ・アスク・ミジュアは嗚咽を漏らす。
涙は温かい。寂しさを象徴する冷たさは感じられない。

この儚くも美しい世界は、彼が泣き止み、再び立ち上がる時を静かに待ち続けた。


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