ネネコ・クローネルの冒険記
〜緑光輝の迷い子〜
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終章(3)
アディゴ・ディフレト湖畔に突如として根を下ろした大樹。
山を髣髴とさせる、雄々しくも巨大な茸上の傘が湖の空を覆って広がる。
深緑の若葉の網目が、強烈な刺激を伝える太陽の光を穏やかな恵みへと変え、
樹下の水面では心地良い清風と波間の冷水を愉しむ事が出来た。
幾重にも広がる、力強い樹枝は隠れ家としても憩いの場としてもふさわしいのか、
耳を澄ませば小鳥がさえずる声、小虫が両羽を擦り合わせる微音が聞こえてくる。
異端と化す事もなく新しい景観を生み、この地での生命の循環を促す家族となった。
時が経てば多くの人々の目に留まり、伝聞に乗せて遠方まで広まっていく事だろう。
人の心を打つには十分過ぎるほどに、美しさと温かさを伴っている。
ゲン・バウアは化物などではなかった。
大樹の礎として、栄養源として吸い上げた生命を解放し、その姿を消した。
静かな湖畔で歴史を紡いでいくであろう、大樹の幾星霜の未来の中では
ゲン・バウアの存在を知るものは限りなく皆無に近いのではないだろうか。
しかし、彼が生きた証は大樹に受け継がれ、この先も続いていくのだ。
木漏れ日が水面に映り込んで小さな虹色を描く中で、
ネネコ・クローネルは瞳を閉じ、オカリナを吹く。
オカリナの音色を遮るものはない。
湖岸に届かせるには繊細過ぎるそのメロディは、
大樹に集まる生き物だけを特等席に招いて、健気にも響き、伝わっていく。
エルマーは大樹の周囲を円を描く様に舞い、映る景観ひとつひとつを慈しんで見守る。
遥かなる大樹の幹は、エルマーを包み隠すほどに圧倒的な存在感を示している。
緑葉の色は、エルマーの緑光輝とも良く似ているようだ。
太陽の光の下ではエルマーの輝きも目立つ事はなく、
緑葉の陰に交われば一体化して消えてしまうが、だからこそ心地良く感じられた。
エルマーが発する緑色の色彩は、生命を象徴する光なのである。
何度目かの演奏を終えて、ネネコがゆっくりと瞳を開けると
尾根が水面に身を隠そうとする境界線に、ドルイドの老人が佇んでいるのを見つけた。
老人はネネコと話がしたいのか、曲を奏で終えて気がつく時を待っていたようだ。
目が合うと、深い皺の奥で彼が笑ったようだった。
「御機嫌よう、ネネコ・クローネル」
「あ……ドルイドのおじいちゃん」
「オカリナを吹くのが上手だのう。この場所が気に入ったのかね」
「うん。静かで、温かくて。お昼寝するのにも最高かも」
「そうか……お前さんがそう言ってくれると、きっと彼も喜ぶ」
老人が言う彼、とは誰の事であろうか。
それは不可解だが、老人はネネコが大樹を訪れたもうひとつの理由を知っていた。
「バセス・チルノダを探しに来たのかね」
「え?……うん。そうなの」
ネネコは胸の奥を読まれたようで、瞳を丸くして驚くが素直に頷く。
余計な不信感や反発を見せる様子もない少女の様子を受けて、老人は歩み寄ってくる。
「心配は要らないよ。彼は、彼が選んだ場所で……元気にしておるだろう」
「おじいちゃん、知ってるの?……もう、ひとりぼっちじゃない?」
「優しい子だ。だから、この場所でオカリナを吹いていたのだね」
「このオカリナは、大切な友達がくれたものなの。吹いている時は、寂しくないんだよ」
「人は、簡単に変わる事は出来ないが、人の中にあるからこそ生きていく事が出来る」
「……うん」
「彼もきっと、その事に気がつくはずだ。だから、もう大丈夫だよ」
見上げれば、頂上を見通す事が難しいほどに大樹は背丈を伸ばしている。
緑葉の合間を縫って覗けば、太陽を視界に収めても痛みを感じる事はなかった。
「ゲン・バウアは、この地で眠ったのだね」
「リウ・オゥとも、バセスさんともお別れしたんだよね」
「不思議な事を言う……その感じ方を、これからも大切にしておくれ」
「あの子達を、忘れないでって……そう、言ってくれるの?」
「……お前さんほど、好感が持てる人間は初めてだよ」
老人が掌を掲げると、紫色の光珠が溢れる中から煌びやかな杖が姿を現した。
何処かエルマーに似た力を見たと感じ、不可思議な現象を前にしても驚く事はなかった。
「ネネコ、お前さんはこれから先もエルマーと共に行くのかね」
「うん……ずっと、一緒に」
「そうか。ならば、また出会う事もあろうて」
「もう、帰っちゃうの?」
「お前さんが生きる時間を思えば、またすぐに会えるよ。ネネコ・クローネル」
「おじいちゃん、あなたのお名前は?」
「ワシの名は……そうだのう、ワシの事は今度出会う時も、おじいちゃんと呼んでおくれ」
言葉を残し、杖を振るうと老人の姿が景色と同化し、消えてしまう。
元居た場所を探り、手を振って確かめてみても何も感じられなかった。
共に過ごし、言葉を交わした時間は限りなく少ないが、強い印象を持つ老人だと感じる。
そしてまた、老人の言葉通りに何処かで出会えるのではないか、と思えるのだ。
立ち上がった姿勢のまま、空を見上げるとエルマーが降りてくる。
逆光を浴びて黒い縁取りが生まれる中でも、その瞳は緑色に輝いていた。
オルデマスの中心に不自然な窪みをつくる、まだ背の低い草木などの植物達。
いまでもはっきりと思い出せる、この密林が燃えた時の跡地だ。
もう少し進んで行けば、エルマーと初めて出会った遺跡の傍まで辿り着くであろう。
このリル・ディスの地で、多くの出来事が起こった。
そして記憶のひとつひとつが思い出へと変わり、ネネコの胸の中に寄り添っている。
嬉しい事、楽しい事、胸が躍る事。
つらい事、悲しい事、心が張り裂けるほどに苦しかった事。
どの欠片も集めれば愛しく、失くしてしまって痛くないものなどない。
体験した、実感した軌跡があるからこそ、いまの自身があるのだと信じられる。
だからこそ、この背丈の低い草木を前にしても、尊いものだと感じられるのであろう。
エルマーと共に空高くまで舞い上がり、景色を一望してみる。
空の蒼、大地の翠。
陽が差し、風が吹き、オルデマスの南北を割って大河が流れる。
エルマーに触れれば温かい。自身の胸に手を当てれば、脈打つ鼓動を感じる。
すべてが当たり前の様に広がっているが、生きている事は偶然ではないのだ。
ネネコ・クローネルは、孤独の中で戦っていたバセス・チルノダの姿を思い描く。
彼の凶行は許されるものではないが、厳罰を加える事が自身の役割とも考えない。
エルマーを奪い、多くの生命を奪ったのだとしても、彼を身近に感じていた。
共にありたい、と考えたのだ。
「マァマ……ママ、お母さん。バセスさんのママは、どんな人だったのかな」
エルマーが密林の一角に舞い降り、景色に具体性が生まれていく。
木々の一本一本、葉々の一枚一枚も見分ける事が出来る様になるのだ。
身体全体が活発に働き、五感だけではなく毛穴まで収縮して世界を受け入れようとする。
心が感じるままに、世界が広がっていくのだ。
ネネコとエルマーが降り立ったのは、何処か懐かしささえ感じる古代遺跡だ。
エルマーはこの遺跡の地下で眠り、ネネコが訪れるのを待っていた。
ネネコが想像するには困難であるほど、永い時の中で待ち続けていたのだという。
自然と一体化した太古の建造物は、元の姿を思い描く事さえ出来ない。
外壁の所々には、古代の人々が何かを伝えたかったのであろうか。文字が残されている。
「やっぱり読めない。エルマーにも刻まれていた、不思議な文字。
イーメル、アウマ、ガウシエット……あはは、変なの。どういう意味なのかなあ」
苔の生えた石板を指でなぞり、適当に読み上げながら進んでいく。
言葉の意味は解らないが、それでも楽しみのひとつに変えてしまうのだ。
しかし一節だけ、いや一語だけ見覚えのある刻印をみつけ、ネネコは足を止める。
「あっ……これは、【ELM:er】……エルマー?」
前後の古代文字に目を通してみても、やはり理解出来る部分は見つからない。
それでも「エルマー」と刻まれた箇所だけに強い意味を感じ、興味が沸いてくる。
「エルマー……エルマーの事を、書いた人がいるんだ。
この文字を使っていた、大昔の人もエルマーの事を知っていたんだよ」
考えれば当然の話ではある。
太古の昔にエルマーを知り、共に生きた者が祭り上げた地下の封印地。
昔から待っていた、と聞いても何処か希薄だった過去との繋がりに説得力が生まれる。
朽ち果てた遺跡の一角で見つけた、【ELM:er】の刻印。
ただそれだけの事ではあるが、ネネコの想像力を働かせるには十分であった。
「ここは……ずっと昔からある、エルマーの思い出の場所。お家なんだよね」
顔を見上げても、エルマーから返事があるわけではない。
やはり常に声を聞く事は叶わないのだが、ネネコが落ち込む様子もなかった。
瞳を点滅させて応えるエルマーは、果たしてネネコに何を伝えているのであろうか。
「お家……マァマ。家族かあ……」
父親と別れ、エルマーと出会うまではひとりで旅を続けてきた。
家族を忘れる事はなかったが、改めて考えると遠い場所で離れて暮らしている。
思えば、最近は夢の中で故郷と子供の頃の自身を見る事が多くなっていたと思い出す。
「エルマー、一度わたしのお家に帰ろうか」
唐突で、思いつきの判断ではあるが言葉にして噛み締めてみると決意が固まってくる。
いままで考えた事もなかったが、故郷を離れてから随分と時が経過しているのだ。
「先生……おじいちゃん。みんなに会いたくなっちゃった。お墓参りもしないと」
南国のベイジラ領とは異なり、東方の島国である故郷の山奥の村。
幼い日を過ごした、ネネコにとっても大切な場所だ。
「その後の事は解らないけど……きっとその時になれば、思いつくよ。
エルマーの事も紹介しなくちゃ。新しい、家族だもんね」
エルマーが翼を広げ、緑光輝の粒を散らしてオルデマスを飛び立っていく。
ネネコの故郷へと帰る前に、リル・ディスで別れを告げなければ。
今生の別れとなるわけではないが、いつか笑顔で再会するためには大切な事である。
胸の中には、ネネコがいる。
もうひとりではない。オルデマスに封じられている必要はないのだ。
少女と巨人は蒼海と大地が生んだ雫となって、この世界を巡り、旅立っていく。
ネネコ・クローネルと一緒であれば、エルマーの翼から光が絶える事はないであろう。
緑光輝の迷い子は、愛しい人と共に帰る場所を見つけたのだから。