ネネコ・クローネルの冒険記
〜緑光輝の迷い子〜

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第三章(4)


リル・ディスを象徴する観光地のひとつであるバルア大灯台。
その頂上、とはいえ歩いて行ける場所ではなく……つまり、屋根の上にネネコはいた。
小さな手の平にはオカリナが包まれていた。

空と海が橙色に輝く中、ネネコ・クローネルはオカリナを吹く。
人々が交わす声は遠くに消え、海鳥と風の音、波の流れがたゆまず続いていく中で
オカリナが奏でる音色が穏やかに、静かに溶け込んでいく。

やがて、塔守の男が翼を広げて顔を出してきた。

「よお、ネネコ」
「サザにいちゃん!……ごめんね、起こしちゃった?」
「いや、良い寝覚めだった……丁度これから、仕事の時間だしな」

塔守は定期的に当直の日程を切り替えているが、この日はサザが夜番の日だ。
狭い屋根の上でネネコの邪魔をしないよう、サザは器用に足を降ろす。

「この場所は好きか?いつもここで、オカリナを吹いているよな」
「ここからだと、全部が見渡せるから……町も、みんなも……空も、海も」
「俺も灯台からの眺めは好きだ……飛びながら見る景色とは、また違うものがある」

鋭く立派な嘴と、蒼く大きな翼を持つサザは鳥人間の青年だ。
数年前までは世界を流れる旅人だったそうだが、いつしかこの町に住み着いたという。

「サザにいちゃん、この海の向こう側には何があるの?」
「うん?……地理的な意味なら、真っ直ぐ南下すると海だけだな、ずーっと」
「リル・ディスの北側は?」
「オルデマスが広がってる。お前も行ってきたんだろう?その先は、山脈だ」

「じゃあ、東には何があるの?」
「しばらくは草原や平地が続いてるが、もう少し離れた場所には帝国軍の基地がある」
「……帝国」

ネネコは、先までの旅の過程をサザには話している。
知識や経験が豊富なサザの意見や助言を、参考にしたいからだ。
それ以前に、彼の振る舞いや性格から話し易さを感じている事も大きいのだが。

帝国、という単語に詰まったネネコの様子を見て、サザは言葉を続ける。

「前にも話したが、軍人とはあまり関わらない方が良いぞ」
「うん……解るけど、でも話せる人もいる……いたよ」
「ユノン・マーダって人か?」

直接名前を聞き、話をしたのが彼だという事が理由でもあるのだが
ユノン・マーダからは他の人間とは異なる雰囲気を感じていた。
それは、軍人であるか否かとは、また別の話であった。

「だが奴等は、何を考えているのか解らない所がある」
「……」
「……オルデマスを焼いたのも、軍人達だったんだろう?」
「それは、そう……そうなんだよね」

オルデマスでの一件は、ネネコにとっても強烈な印象を残していた。
すべてが赤に包まれた悪夢の様な光景は、あまり思い出したくないものである。

いつになく、小さく身体を抱えているネネコの様子を見て、サザは頭に手を添えた。

「まあ、納得出来る様に、やりたいようにやればいいさ……お前が無事なら、それでいい」
「うん……ありがとう、サザにいちゃん」

ネネコが笑う。
橙色の中に強く赤を含ませる夕焼けの光が、ネネコとサザの身体も飲み込んでいく。
握り締めたオカリナに目を落としたサザはもう一度、音色が聴きたいと促した。

「ネネコ、他の曲も聴かせてくれ。そうしたら、果物屋まで背中に乗せてやるから」
「わかった!それじゃあ……カサヤで教わった曲にしようかな」

聴いた事が無い、異国の曲だ。
多くの民族と言語が入り混じる、リル・ディスには良く馴染む。


西の空に陽が隠れてから数刻が経ち、周囲には静寂と闇が訪れている。
ネネコ・クローネルは寝床を抜け出し、港口の外れまで足を運んでいた。
遠くには酒盛りをする人々の声が聞こえるが、火の灯りもまばらで落ち着いている。

闇は人と家屋、草木と物陰、空と海の境界線をも曖昧にして生命の眠りを見守る。
聞こえてくるのは、波間と風の流れて来る音。
しかし夕焼けの中、バルア大灯台から聞き取れた音の流れとはまた異なっている。

ネネコは瞳を閉じ、自身の意識をも闇の中へと同化させていく。
少しの間には周囲の音が一層耳に届き、細かい音まで聞き分ける事が出来たが
その領域を過ぎ、深淵の奥へと沈み込んでいくと、一切の音が聞こえなくなった。

父、ユウマ・クローネルはネネコに拳法の術を教えた。
そして真の敵は眼前には居らず、自身の胸の奥にこそ潜んでいる、という言葉を残した。

ネネコは気持ちが落ち着かない時、悩んだ時、塞ぎ込んだ時には
ひとり、こうして自然の中に身を投げ、ネネコ自身との対話に臨む様心掛けている。

瞑想の手段は人それぞれだが、ネネコは地平線や海平線、
草木や樹海、山々の縁取りを追って気持ちを真っ直ぐにする事が一番馴染んだ。
父、ユウマも自然界の景色や音色に意識を溶け込ませるのが良い、と教えてくれた。

ユウマは日々、朝陽が昇る前に起き出しては瞑想に入る習慣が見についていた。
ネネコは毎日とはいかないが、朝よりも夜を選ぶようになっていた。

単純に、朝起きるのが苦手で意識に逆らう行動を取るのを避けるようになった事もあるが
就寝前に一日の徳と毒味を整理して、心のバランスを取っておくと
苛立ちや不安が消え去り、落ち着いた心持ちで熟睡出来る事に気がついたからだ。

すべてが黒に満ちた時、転じて白の景色が胸中に広がる。
その眩しさを受け入れ、瞳を開くとネネコは腰を落として構えた。

右拳を、眼前の海の彼方へと突き出してみる。
真っ直ぐに伸びた意思は、宙空を鋭く裂いて小気味良い音を耳まで届ける。

今度は左拳を二度、そして休まず右拳を振るい、リズムを形成する。
膝を落とし、小刻みに後退すると同時に再度踏み込み、右拳が伸びる。
勢いを殺す間もなく身体を反転、甲の裏で風を切り、回転しつつ右脚が踊る。

仁王立ちの後に瞳を閉じ、額の前で両腕を交差する。
眼光と十字の開放が咆哮へと変わり、ネネコは三度、四度と連続で回蹴を重ねる。
左脚で着地すると、そのまま右脚は折畳んで腹に寄せ、両腕を広げてバランスを取った。

ここまでは流れるように円舞を形取っていたが、やがて不規則な動きへと変わる。
腕と脚が絶え間なく伸び、頭と腰がその動きを支え、追随する。

独特の息継ぎが空気を叩き、髪と裾の端、そして鉄拳と蹴撃が空間を引き裂いていく。
横の動きに加え、跳躍と伸縮を織り交ぜた縦の動きも重なり、
ネネコが普段見せる、あどけない少女の姿は何処かへと消え去っていた。

眼光が夜闇を貫く。

激しさは冷静さを取り戻し、緩急を織り交ぜた動作へと移り、そして平静へと結んでいく。
ネネコは両脚を地面につき、両腕を左右に大きく広げて空気を胸の中に取り込み、
肩を下げながら再び吐き出した。やや開かれた瞳が、緊張を失って潤んでいく。

これで、一連の瞑想の流れは終わりだ。
少しずつ、熱と疲労がネネコの意識に返って来る。

「……ふう、ふう……ふう……」

それは、息を切らしているわけではない。
半ばトランスに近い状態に陥った自身を取り戻すため、声に出して呼吸を整えるのだ。
ネネコの集中力は、極限まで達すると自覚する想定以上に我を失わせる。

顔を上げ、二度三度と瞬きをすると、普段のネネコ・クローネルが帰ってくる。
屈伸を重ね、腕を休ませると用意していた布切れで額の汗を拭いた。

「……エルマー、おまたせ!」

振り返ると、闇の中にはエルマーが佇んでいた。
ネネコの習慣として、こうした瞑想の時間が大切な事は良く知っている。

「エルマー、ひとつお願いがあるんだけど……」

エルマーは疑問を浮かべる様に小さく瞳を収縮させるが、答えは直ぐに出た。
ネネコを抱えて、月下の空まで飛び上がって欲しいのだ、という。
エルマーにとっては何一つとして難しい事ではない。やがて煌びやかな翼を形成した。


今宵の空は、満月だ。

エルマーはゆっくりと、月が浮かぶ空を目指す。
普段よりも月が近く感じられてならない。
事実、視界はほとんどが丸い月で満たされていった。

「エルマーは、空の向こう側へ行った事があるの?」

月明かりに照らされたネネコは、エルマーの胸に手を添えて尋ねる。
穏やかな風が赤い髪を遊ばせ、幻想的な景色に溶け込んで不思議な印象を持たせる。

エルマーは、言葉を話す事が出来ない。
オルデマスで何度か聞いた意識も、この数日間は一度も響いてこない。

だがその程度では、ネネコとエルマーの間に壁をつくる理由にはならなかった。

「まだ、今よりももっと小さかった頃はね、頭の上を飛んでいく小鳥が羨ましかったんだ」

エルマーの背後には、黄金に輝く翼が広がっている。
そして、翼の端からは瞳の色と同様に、緑光輝の粒が絶え間なく溢れ続けているのだ。

「あの子達はみんな、行きたい所に、思うままに飛んでいけるのかな、って」

表情を暗く落とす様子は無い。
ただ純粋に、願望を言葉にして伝えてくれているようだ。
その願望も、ネネコにとって足枷となっている訳でもない。

「だけど、今はもう違うんだ……気づいたの。
 小鳥達も、わたしやエルマーも、何も変わらないんだって……実感出来るから」

そこまで話すと、ネネコはエルマーの胸から手を離して掌の上で笑ってみせる。
エルマーの瞳は動揺の色を隠せない。

「エルマー……これからわたしが落ちるから、どうか追い駆けてね。
 でも、何も心配はいらないよ……きっとつかまえてくれるって、信じられるから」

月を目指して空を舞い、エルマーの身体はすでに相当な高度にある。
しかしネネコの心には、戸惑いも恐怖も無かった。
ネネコは微笑み、瞳を閉じるとエルマーの視界から消えた。

ネネコは、音も無く落ちていく。
瞳を閉じて、身体全体で実感する。

エルマーは翼を広げ、幾重もの光を放出させてネネコの姿を追う。
何事もなく無事にネネコの傍まで辿り着くと、両掌から溢れた光が包み込んでいく。
緑光輝の光は少女の身体を支え、無重力の中で遊ばせているようだ。

「ほらね……エルマーは、ちゃんとつかまえてくれた。
 解ってたよ……解るんだ、どうしてなのかな?……ね、エルマー」

逆さまになったネネコの身体が、ゆっくりと反転して向き直る。
揺れる赤い髪は月明かりと緑光輝の中でも、その存在を忘れさせる事はなかった。


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