ネネコ・クローネルの冒険記
〜緑光輝の迷い子〜

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終章(1)


開け放つ小窓の端に寄せられた日除けの切れ布は、やはり今朝も用を成していない。
目覚めの遅いネネコを急かす様に熱い陽射しが顔に突き刺さるが、鬱陶しさは感じない。
夢現の中で小鳥の鳴き声を大きく感じていたが、いつからか部屋の中まで侵入していた。

「ん、うん……おはよう」

ネネコが仰向けに寝返りを打ち、人差し指を水平に構えると
天井をせわしなく飛び回る小鳥が降り立ち、指を器用に挟んで翼を折り畳む。

空いた掌で額を庇い、不自然に顔を歪ませているネネコの表情がおかしかったのか、
小鳥は二、三首を傾けて鳴くと、外の世界に飛び立っていった。

「寝坊……何度目かなあ。起きなくちゃ……今日は、特別な日」

皺の寄った寝巻きを脱ぎ捨て、軽装で薄布の民族衣装に袖を通す。
鏡の前に立つのは多少なりとも憂鬱ではあるが、この日は寝癖が見られなかった。
意表を突かれて何度か自身の顔を凝視してしまうが、些細な幸運に笑った。

頬の端をつねって見ても、ちくりとした痛みが返って来る。
愛用の革靴は多少ほつれていたが、それもやはり、些細な事なのだ。


「おばちゃん、おはよう!」
「おはよう、ネネコちゃん……まあ、良く似合っているじゃあないか」
「へへ……動き易いね、この服。いつも着ていたいけどなあ」
「髪も大人しくしてるし、今夜は良い事あるかもしれないねえ」

狸に似た亜人種の女性は、ネネコが滞在し、世話になっている青果店の女将だ。
いつも通りに遅れて降りてくるネネコのために、再度朝食を暖め直してくれる。
女将もこうなる事が予め解っているのであろう、火は小さくも起こしたままで待っていた。

「お祭りでは、たくさんの花火が見られるんでしょう?」
「そうだよ。上の部屋からも見られるけど……是非帆掛け舟に乗って見ておいで」
「うん!楽しみだなあ」

ネネコの身を包む衣装に限らず、この日はリル・ディスにとっても大切な行事日である。
数日前からも準備が続き、今朝も早い時間から町民達が走り回っていた。

林檎と魚肉を合わせたパイを口に頬張りながら店先の様子に視線を移すと、
普段であれば開店前になる時間の今でも、来客者の姿が幾らか見受けられた。
そうした何気ない日常の変化が、胸の奥から高揚感を煽ってくるのだ。

「このバスケットを、お供え物として持っていけばいいんだよね」
「そう。海神祀りとは言っても、農産物だって感謝の気持ちを忘れちゃいけないからね」
「わたしに任せて!」
「無事に届けておくれ。難しい事じゃあないけど、今年一年の豊作もかかってるんだから」

ネネコの髪を撫でる掌からは、甘味と酸味を織り交ぜた果物の香りが感じられる。
彩り豊かな果実を詰め込んだ籐篭を胸に抱えながら女将と共に店先に出ると、
来客の相手をしながら声を挙げる主人の傍らでエルマーが客寄せの手伝いをしていた。

「おじちゃん、エルマー。おはよう」
「おお、ちびスケ。起きてきたかい」
「バスケット。お店を代表して、ちゃんと祭ってくるからね」

「一番目立つ所に飾ってやっておくれ。海の神様が、すぐに見つけられるようにね」
「おじちゃんとおばちゃんの果物なら、きっと神様も大喜びだよ」

「夕方になったら、オジサン達も観に行くけど……ネネコも一日、楽しんでおいで」
「うん!それじゃあ、行って来ます。おいで、エルマー」
「行ってらっしゃい、ネネコちゃん」

ネネコに誘われてエルマーも後をついていく。
見上げれば、青い空に巨大な入道雲が上がっていた。実に良い日和である。


年に一度のリル・ディス全体を上げた感謝祭、という事もあり多くの人で賑わっている。
元々、町民、商業者、観光客と溢れんばかりの人間達が集まる港町ではあるが
この季節は比較にならない程にその密度を増していた。

そして誰もが、伝統的な民族衣装を身に纏って祭りの雰囲気を楽しむのだ。

北から南に走る中央路を進んで海鮮市場を抜け、漁港まで辿り着くと
海岸には大小様々な帆船、客船と祭りのために用意された帆掛け舟が肩を寄せている。
海上では男達がやぐらを打ち立て、混雑する中でも一際目を引いていた。

空と海の中心に構えられた、祭りのための神輿とやぐら。
海神様を招き、祝い、祀る事を願ったリル・ディスすべての象徴なのだ。

「ネネコちゃん、エルモちゃん、おはよう!」
「来たかネネコ。順番が回るまではまだあるけど、良い場所選べよ」
「おはよう、モド、マーコちゃん。すごい人だねえ」

誰もが腕に籐篭を抱え、中には海産品、農産品、民芸品に装飾物などが詰まっていた。
やぐらに向かう帆掛け舟の前に長蛇の列が続き、
ここまで来るのに眺めてきた人々も、やはり皆が同じ場所を目指している。

褐色の肌を持つ幼い兄妹は、ネネコのために順番を確保して待っていた。
もっとも、彼等もそれぞれの供物を抱えており、やはり目的は同じなのだ。

「リル・ディスのハナビはすっごくきれいなんだよ」
「今から楽しみ。はやく夜にならないかなあ」
「ネネコは親父の船に乗せてやるよ。特等席で見ようぜ」
「本当に?ありがとう!」

マーコに擦り寄られているエルマーも、瞳を輝かせて反応している。
絶えず汗を垂れ流させる暑さの中で、順番待ちをする煩わしさも苦にならない。
明るい陽射しの中で光を照り返す果実達も、何処か誇らしげに笑っていた。


平日には精悍ながらも質素な印象を抱かせるバルア大灯台も、
ベイジラ領特有の装飾で飾り立てたれ、今宵の役割が回ってくるのを待っている。

ネネコを肩に乗せて翼を広げるエルマーが、ゆっくりと頂上目指して上がっていく。
監視台には普段と変わらず、蒼い翼の塔守が当直に当たっているはずだ。

「サザにいちゃん、こんにちは」
「ようネネコ。町の賑わいは凄いだろう。海神祀りは、初めてだったな」
「初めてだよ!あとこれ、祭祀の飾り羽根を持っていってくれって頼まれたよ」
「おお、ありがとな。これがないと始まらないぜ」

美しい裁縫が織り綴られた飾り羽根を受け取ると、サザは灯台火の部屋まで移動する。
供物が祭られていているのは、海上のやぐらだけではないようだ。
ここでは主に装飾物が集められているのか、足の踏み場がない程に飾りつけが豪華だ。

「今夜はバルアにとっても特別なんだ。腕が鳴るぜ」
「神様が道に迷わないためには、灯台の明りが大切だもんね」
「その通りだ。町中の、海上の何処までも光を届けてやるから安心しな」
「サザにいちゃんも、なんだか楽しそう」

サザは灯台火を高く見上げ、腕を組んで笑う。
聡明で頼りがいのある兄分の青年ではあるが、時として子供の様な表情を見せる。
だからこそネネコも親近感を持ち易く、彼に懐いてはいるのだが。

町では順調に、海神祀りの準備が進められていく。
所々で火薬が炸裂する音がするが、迷惑な騒動ではない。これも行事の中のひとつだ。

もっとも、昼間の内から酒樽を掲げて騒いでいる者達はその限りではないのだが、
リル・ディスに集まるすべてが、祭りを盛上げるための一因となっていた。


太陽が西の空に沈み、オレンジ色に染まる空と海も徐々にその熱を冷ましていく。
やぐらを中心として帆掛け舟が幾つも海上に溢れ、
惜しくも舟を確保できなかった者達も海岸線に群集をつくってその時を待つ。

いよいよ、海神祀りの本命である海上花火が打ち上がるのだ。
富と繁栄、豊穣をもたらす生命の起源である蒼海への感謝の礼。
そしてまた、生命を未来へと繋げるために犠牲となった食物を空へと届ける儀式でもある。

それぞれの願いと思いを託して、職人達が仕上げた花火が彼方へと還って行くのだ。

「マーコ、眠いのか?もう少し頑張れよ」
「ねむく……ないよ。マーコ、ハナビみるんだもん」
「花火……花火かあ。エルマーも、しっかりと見届けてね」

モド達の漁船が小波の中で静かに揺れ、エルマーの緑光輝も夜闇に煌いている。
やぐらと海岸線の至る所に蜀台が灯り、人々の注目を集めていた。
潮の香りと燻る木片が風に乗り、波間と共に唄を奏で続ける。

花火が上がる。

赤、青、黄色。緑色に紫色、時として白色の色彩を織り交ぜ、光が舞い散る。
打ち上げられる度に砲音が轟き、身体全体を揺さぶるように叩いてくる。

自然がもたらす景観に劣る事もなく、美しくも散っていく。
ひとつひとつ、花火の弾が天高く上がり、誇らしくも輝いては夜の闇へと消えていく。

いつまでも眺めていたい情景ではあるが、何事にも終わりは訪れる。
リル・ディスの惜念を汲んでか、最期には幾つもの花火が一斉に乱れ咲いた。
最も輝ける瞬間を人々の心に根づかせ、後世に託してその役割を結ぶ。

海の神様達は、今年もリル・ディスを祝福してくれる事であろう。


祭りの舞台を中央広場へと移し、大太鼓が轟き、響き渡る中で宴は続いていく。
今宵は大人も子供も、その境を無くして皆が同じ顔色で騒ぎ立てるのだ。
食べ狂い、飲み狂い、人の目を引いて目立った者が祭りの主役となる。

尾を持つ者、鱗を持つ者。
体毛を蓄える者、翼を広げる者。
個々を分け隔てる要因など、祭りの前では飾りにも過ぎない。

猛る炎を囲み、円を描いて人々が踊る。
唄い、回り、豊かに舞っては相手の手を取り、笑顔を重ねていく。

ネネコ・クローネルもまた、その中に混じって思うが侭に身体を動かす。
太鼓が胸を叩き、リズムが心を揺さぶる中では大人しくしている事など出来はしない。

「機械人、エルマーか。奴等を巻き込んだ騒動も、これで終わりかね」
「俺達もそれぞれの場所に帰っていく。また、変わらない日常に戻るんだ」
「退屈な任務を消化する日々かい。悪くはないが、バセス中佐の捜索も続けるのか」
「まあな。だが、見つからないに越した事はないだろう……彼のためにもな」

「うん?……そうか、そうだな」
「あの子の笑顔を見ていたら、これで良かったと思える……というのは、楽観的かな」

広場の片隅では、祭りの中心を監視する軍服姿の二人組の姿があった。
些細な区別などなく、人々が肩を寄せるこの場所にあっては彼等も歓迎されるであろうが
輪の中に溶け込む事もなく、ユノン大尉とエッジ少尉は口の端を緩ませると場を後にする。

この場所は、彼等ではなく少女と巨人のためにあるのだと、感じられたのだ。

「ほらほら、ネネコちゃん。オッチャン達と踊ろうぜい」
「ドンタッタ、ドンタッタ。御腰をフリフリ、踊りましょう」
「あははは!ほら、エルマーもこっちに来て。ドンタッタ、ドンタッタ!」

手を振り、足を振り、いつ終わる事もなく太鼓の鼓動は打ち続けられる。

くるり、くるりと。
輪になり、円になり、祝福の唄が黒い闇と赤い灯の中で綴られるのだ。

リル・ディスの宴は、延々と続いていく。


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